『教育現場は困ってる 薄っぺらな大人をつくる実学志向』榎本博明

『教育現場は困ってる 薄っぺらな大人をつくる実学志向』

2020年6月15日 初版第1刷発行

 

著者名 榎本 博明(えのもと ひろあき)

発行所 株式会社平凡社

 

「授業が楽しい」とはどういうことか。

 

ベネッセが2015年に全国の小学5・6年生とその保護者を対象に実施した調査によれば、「他の教科と比べて英語はおもしろい」という子が71.5%、「英語の授業をもっと増やしてほしい」という子が59.1%、「他の教科と比べて英語は簡単に感じる」という子が47.9%などとなっている。

学校での英語活動が楽しいという子どもが、非常に多いことは分かった。

だが、そうしたデータを根拠に小学校での英語教育を推進すべきだとするのはとても危険である。

なぜなら、現在行われている英語活動は、簡単な英語を使ってゲームをしたり歌を歌ったりするわけで、いわば幼稚園でやってきたお遊戯を英語でやるもので、けっして勉強ではない。

表層的な「楽しい」「おもしろい」にとらわれすぎるとどうなるか。

大人になり社会人になったとき、実際に働いてみて、楽しいと思っていた仕事でちょっと苦しい思いをしたりすると、「思っていたのと違う」ということで離職を考える。そんな早期離職が少なくない。

 

知識詰め込みへの反動から、今では中高生や大学生の知識不足が深刻な問題となっているのではないだろうか。

昨今の教育の潮流のせいで、プレゼンテーションやディベートのスキルを訓練するような授業や研修を受けるばかりで、知識の吸収が疎かになっていて、思考が深まっていない。

知識受容型の教育から脱却し、主体的に学ぶ教育で考える力を身につけるというが、知識なしに考えるとはどういうことなのか。

本をよく読み、知識も多く取り込み、語彙を豊富に持つ学生の方が、抽象的な概念を駆使して思考を深めることができる。

 

日本人が堂々と自分の意見を述べることができないのは、日本文化においては認知的複雑性の高さに価値が置かれてきたからではないか。

自分の意見がしっかりあったとしても、人の意見を聞いていると、そう言いたくなる気持ちもわかるし、相手の視点から見れば、そういう理屈も成り立つように感じられるため、反論しにくくなる。

あるいは、自分の意見を言う際にも、それが絶対的なものとは思えず、別の視点から見れば違う理屈もあるだろうなと思うからこそ、自信たっぷりに述べることができない。

そう考えると、自分の意見を自信満々と述べる人に引け目を感じる必要がないことがわかるだろう。学校で学ぶ時点では、自信を持って自分の意見を述べるよりも、視野を広げ、もっと思考を深めるために、ひたすら吸収する姿勢を持つことが必要なのではないか。

 

かつてはキャリア教育などなかったが、今では当たり前のようにどの大学でも行われている。それは、フリーターやニートの増加、就職しても3年以内に辞める早期離職の増加など、就職先に定着できない若者の増加が深刻な社会問題になってきたことによる。

授業におけるキャリア教育の中心となっているのが、「好きなこと探し」を軸にしたキャリアデザイン教育である。

先がますます読みにくくなる時代に、将来のキャリアをデザインすることに、果たして意味があるのだろうか。

キャリア形成における偶然の要因を重視する「計画された偶発性理論」の提唱者である心理学者クランボルツが行った調査でも、18歳のときに考えていた職業に就いている人は、わずか2%しかいなかった。

クランボルツの「計画された偶発性理論」でも、従来は優柔不断とか決断できないというように否定的に評価されていた未決定の心理状態を肯定的にとらえ直し、心を開いた状態を維持することの大切さが強調される。

そして、どのような出来事が起こるかはコントロールできないが、たまたま起こった出来事への理解と対処の仕方が、その後のキャリア形成を大きく方向づけると考える。

偶然の好機を逃さないように、いろいろな力をつけるためには、先のことばかり考えずに、目の前の課題に没頭することが必要である。

また、偶然の好機にめぐり合う機会を増やすことも大切である。

改めて強調しておきたいのは、「今、ここ」に没頭することで、「今」を思い切り生きようということである。

先のことに気を取られずに目の前の課題に没頭することで、結果として力がついたり、納得のいくキャリアの道が開かれたりするのだろう。

 

できないことができるようになるのが成長であり、自分が成長しているといった実感や喜びや充実を生む。はじめから楽しいというようなことはなく、「できないこと」が「できるようになる」ことで楽しいと思えるようになり、それをすることが好きになる。

 

実学志向が薄っぺらな大人をつくる。

このところの教育改革は、実用的な知識やスキルの習得を重視する方向にどんどん向かっている。そうでありながら主体的で深い学びを重視するという。

教育現場に身を置くだれもが気づいていると思うが、子どもや若者を教育する立場にある者は、そのあたりの矛盾を認識し、深い学びへと導く覚悟が必要だろう。

 

 

 

♡この本を読んで♡

アメリカへの劣等感の表れなのか、昨今日本でも、アクティブラーニングへの取り組みを耳にする機会が増えました。

しかしそこに居るのが、知識の乏しい子どもたちや、アクティブラーニングを行うこと自体を目的とした大人であっては何の意味もありません。

この本には、「日本文化においては認知的複雑性の高さに価値が置かれてきた」と書かれています。これは日本人が「日本」という小さな国で、他者と共存しながら生きていくために身に付けてきた、繊細で、想像力豊かな国民性のように感じました。

しかし、これから行われようとしている、実用的な知識やスキルの習得を重視する教育改革によって、その素晴らしい能力は失われるのではないかと危惧しています。

他国への劣等感や焦りからではなく、子どもたち、更には豊かな日本の未来のために。

教育改革をされるのであれば、それを念頭に置いた上で進めて欲しいものです。